高校3年になった加藤は当時ナナハンキラーの異名を取ったRZ350に乗っていた。
そのナナハンキラーに乗って箕面の山を走っていると、見知らぬバイクにあとを付かれ、そのライダーに
「そんなバイクでゆっくり走ってたら、かっこ悪いで。」
と言われてしまった。本人は、
「絶対練習して上手くなるぞ!」
と 思ったという。
負けず嫌いの性格、今でもこの事を覚えているのはよほどカンに触ったのだろう。
それから、毎日走りに行った。
当時、箕面の山ではギターを担いだまま走るライダー
「 青い梅干」
と変な名前がついていた。
当時、青い流れ星というRZ350に乗ったライダーを題材にしたマンガが流行っていたんです。
ある日、RZ350が盗難に遭ったが、盗難保険で新品のバイクを買えることになった。
バイクに不満を抱えていたのか、今度はRZ350ではなく、CB250RSZに乗り換えた。
片山敬済氏が宣伝してました。それに憧れたのかなぁ~。
(後にチームカタヤマの助っ人ライダーになろうとは。。。)
それから一層、山を走る毎日になった、毎日となるとガソリン代が掛かる。
加藤は考えた。
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「受験勉強でバイトもできない。オカンが作ってくれるお弁当はやめて、
売店でお昼ご飯を買うからと言って毎日500円もらおう。」
毎朝 500円貰い、
お昼ごはんを食べずその500円はガソリン代へと消えていった。
毎日通うことで、顔見知りの友達も次第に増えてくる。
後にレースをはじめるきっかけとなった大島 正さんともここで出逢う。
そのほかにも、後に国際A級となったライダー達が箕面に走りに来ていた。
18歳春、大阪電気通信大学に無事入学。
大学入学と共に山に走りに行く機会は減ったが、
山ではMFJライセンスを取ってサーキットへ走りに行くことが流行りはじめていた。
加藤もレースをしたい訳でもなかったが、鈴鹿サーキットライセンスを取った。
しかし、
普通の大学生らしく合コンに行きたいとか女の子と遊びたいと言う衝動に駆られ、
「バイクは辞めよう。でも、せっかくライセンスを持っているんだから、
最後に鈴鹿サーキットに走りに行ってみよう。」
と考え、初めて鈴鹿サーキットをCBX400Fで走行した。
出たタイムは当時の鈴鹿サンデーレースの予選通過タイムを上回っていた。
大島正さんにそのことを指摘され、
「だったら、最後にレースに出場してからバイクを辞めよう。」
とMFJライセンスを取得し、レース出場を決める。
1983年の秋だった。
初めてのレースは鈴鹿 西コースの「SS400クラス」。
エントリー台数70台、予選通過台数は33台であった。
その中で予選6番手。
決勝レースでは押しがけスタートでエンジンがかからず、
最後尾までポジションを落とした。
負けず嫌いの加藤
「クソォーッ!!」
必死の追い上げもむなしく結果は7位。
くやしい、納得いかなかった。
「もう1回出よう、それで最後にしよう。」
と考えて再度レースに参戦、予選5番手、決勝4位の結果だった。
「これで、思い残すことなく辞められる」
と思っていたところに、大島 正さんがやってきた。
大島さんは当時、国際B級。「BEET RACING TEAM」のエースライダー。
「BEETがライダーを探してんねん。テストを受けてみいひんか。」
と持ちかけられた。
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